チャナッカレ/トロイ Canakkale/Troy

◆早朝のチャナッカレにて

午前4時30分。チャナッカレにバスが到着する。到着の5分前頃には車掌が「チャナッカレ」だと私に伝え、手荷物を用意するようにと促してくれる。バスの ステップを踏んでチャナッカレの地に着くものの、現在地が判らない。すくなくともここはオトガル(バスターミナル)では無くようだ。むしろ少し無機質な感 じのするエリアということがわかる。

付近は街灯が明かりを提供してくれているが、まだ薄暗さが多分に残るエリア。あたりを見渡すと数人の乗客がバスを下車したようだ。そのうちの1人、英語が 通じそうな学生を選んで現在地を尋ねたところ、ここは町の中心部、埠頭の真っ正面だという。何件かのゲストハウスを事前にピックアップしていたがそのいず れにも徒歩1〜5分圏内のベストポジションなのだ。
まずは学生君の導きもあり、バス会社の小さなオフィスに荷物を預ける。彼はバス会社が運行するセルヴィス(無料のドルムシュ(乗り合いタクシー))の到着 を待っているのだが、その時間が手持ちぶさたなのだろうか、私との会話で費やそうとしているようだ。
そんなスタートを切った会話も5分を越える頃から、少しずつ心を開いたものに変わっていく。私にホテルを探す必要があると知った彼は、身振り手振 りを加えながら 「それならばウチに泊まれば良いじゃないか。宿泊料もかからないだろう。ただちょっと市内からは遠いけどね。」 と申し出てくれる。
それは地元の人の暮らしを直接見ることが出来るという 非常に興味を引く申し出ではあったが、結局のところ私はその申し出を断ってしまった。
金銭面を含めて自分が彼に頼るメリットと、そのために払う気遣いを天秤にかけて、『20代の旅行なら甘えられたかも知れない』 という 少しのプライド、よく言えば 分別 というヤツがそうさせたのだろう。

彼が乗ったセルヴィスがバス会社前を出発した後、私はバス会社にパックパックを預けたままで 街灯がてらしだす街へと宿を探しに歩き出す。



埠頭の前にある電光の時計は5秒毎に気温の表示と切り替わる。午前5時で16℃。まったく寒さを感じさせない気温はエーゲ海に近いことを証明しているのだ ろうか。
付近のゲストハウスを覗いてみるが、まだ時間が早すぎるためか、ほとんどの宿のシャッターは閉まっていた。
一軒だけ ドアが開いている宿を発見したので値段などを聞いてみる。対応の良さそうな宿ではあったが、シングルルームは満室で ドミトリーだけが空いているとの事。
内見させていただいたが、14人ドミトリーの広大な空間は若い旅行者のためのものに思えて、まるで 私に泊まることを拒否しているように思えた。もともと この街ではドミトリーに泊まる予定では無かったことも私にそう思わせた大きな要因ではあるのだが。
「まだ、時間は早い。日が昇ってからゆっくり探してもいいさ。」と埠頭に戻る。

海を見ようと埠頭に向かうと、自分がバスを降りた場所では一軒のレストランが明かりを灯していた。 数名の地元民客を擁しているその店を通り過ぎようとしたところで、オープンテラスにチャイを傾ける一人の日本人を視認した。






バックパックをテーブルの横、そもそもは歩道なのだが、既にチャイ屋の敷地と化している床に 彼はバックパックを置いていた。同じテーブルには 飲みながら夜を明かしたと思われる地元トルコ人が 彼と横並びで席を取っている。このころは日本がゴールデンウイークとなる時期にあたり、私は 『 おそらく彼は短期の旅行でトルコを廻っているのだろう。』と考えた。 彼の着ている服はあまりにもこざっぱりとしていて、とても長期旅行者には見えなかったからだ。目が合った時点の仕草から お互いが日本人であることがわかる。隣のトルコ人からの掛け声もあり、同じテーブルに席を頂く。彼に “短期旅行者”のイメージを見たが、そこに何かの違和感を感じていた。おそらく 日本社会というものの背負い方が少し違ったことを感覚が受け止めていたのだろう。果たして、彼は ドイツはフランクフルトで働いていると後で聞き及ぶことになる。
トルコ人からチャイを奢っていただきながらの雑談は2時間に及んだ。どちらにせよ街が動き始めるまでは なんの用事もない3人である。バックグラウンドが異なることから 余計な気遣いを行う必要のない会話は 明け方にまどろむ脳を目覚めさせるにあまりある魅力を提供してくれた。

自分を含めて日本人2人の目的は、当然ながら観光である。それを知ってか トルコ人の彼は 市内を見に行こうと誘ってくれる。最初は彼が客引きの類ではないだろうか?と訝しく思いはしたが、とくに嫌らしさを感じることもなかったことから 戸惑いつつも彼の後に歩を共にする。


ちょうど日が昇り始めたチャナッカレの港湾には無数の漁船と遊覧船が停泊している。そして無数のクラゲ。エーゲ海へと潮流が向かうこのマルマラス海終端の 5月の海はそれこそ万を下らないクラゲの楽園なのだろう。
少数のクラゲであれば気が引けることも無かろうが、大量なクラゲに『エンガチョ。』な気持ちを持ちつつ港湾沿いを歩いて行ったところで、まさかの 木像 を目にすることになる。


トルコ人の彼が我々に見せたかったものはこの木馬だった。トロイ遺跡と少しの土器を無料で展示するオープンエアーの博物館へと彼は案内してくれていたの だ。彼のつたない英語と貫徹で飲んだ後であろう個性の表れに私たちは彼に対して 少し誤解をしていたようだ。映画「トロイ」で使われたらしい その木馬は私たちを満足させてくれるものだった。我々にとってはこれでチャナッカレでの用事は終了したようなものなのだ。事実、ドイツ勤務の彼はその日の 正午便で次の街へと移動することになる。

木馬を堪能した後も 彼の即席チャナッカレツアーは続き、市街地へと針路を向ける。

続いて向かったのは、港湾部南西にある 海軍博物館。まだこの日の開場にはかなり早い時間ではあったが、受付は地元民である彼の要望を聞き入れてくれ、館内には入らない約束で入場させていただい た。
豪快に暴発した砲身を皮切りに、中庭には魚雷やレトロな砲台が並んでいる。彼らのせっかくの彼の心遣いではあったが、ドイツ勤務の彼も私も 軍事関係への興味は薄く、敷地内にある沿岸線こそを堪能させていただいた。

即席ツアーガイド氏によると、ここはマルマラス海の終端、南西方向に見える海はエーゲ海だと言う。大きめの砂利と護岸岩を包む海水は非常に澄んでおり、日 本のそれとの大きな違いに驚く自分を発見する。

海軍博物館を後にしてからも彼の即席ツアーは続き、チャナッカレのショッピングストリート “チャルシーRd”へと歩をすすめる。のちに “チャルシー” または “ チャルシュ” はトルコ語で “市場”という意味だと知るが この時の私は、キャンディーに似た名前に親しみと少し funny な響きを感じていた。

即席ツアーガイド氏がここに向かった理由は、ドイツ勤務氏が時間つぶしに開店が午前6時30分と一番はやいハマム(トルコ風の公衆浴場)を早朝の時点で考 えていたからなのだが、ここまでの雑談とショートツアーで既に時刻は午前8時。また入浴料もマッサージの有無で20〜50YTLとそれなりに掛かることか ら、すでに入浴の予定をキャンセルしている。とはいえそれが伝わっているのかいないのか、はたまた ただ単に人がよいガイド氏故に 我々に見せたかったのか、ハマムの入り口まで来てしまった。外観入り口には 1620年に開業したという 表示がかかる。


チャルシーRdで見かけたカパルチャルシュ(屋根付きの市場)、イスタンブールにあるグランドバザールの小規模版となるが、表に掛かっている表札が目を引 く。5カ国語で 市場 と意味する言葉がかかれているのだ。(アラビア語?ペルシャ語?など)そのうちようやく読めるものは Passage Hallio というアルファベット表記のみ。


街角にあった昔ながらのパン屋さん。試しに頂いた イスパナック・ボレイ (ほうれん草入りのパイ生地パン)50クルシュ(約45円)。他にクイマナック・ボレイ(挽肉入り)などがあり、出勤前のトルコ人で賑わっていた。


当初、街角散策を始めた即席ツアーガイド氏がどこに向かっているのか、ドイツ勤務氏と私は理解していなかったが、中心地の外れにある トロイ遺跡行きドルムシュ乗り場に到着したことで、彼がここを目指していたことがわかる。とはいえ現在時刻はまだ午前8時、遺跡に行くには少し早いし、 バックパックをバスカウンターに預けたままである。加えてドイツ勤務氏は すでに先ほどの港湾沿いにある木馬で満足しており、トロイ遺跡を割愛して次の町に向かう決心を固めている。
即席ツアーガイド氏もそろそろ出勤の時間らしいので港湾方向、市内の中心に戻りつつ宿を探す。

2〜3軒のゲストハウスを見せていただき、宿が決まったところで3人はそれぞれ自分の道に戻っていく。
即席ツアーガイド氏は自分の職場へ。
ドイツ勤務氏は チャナッカレを離れて次の街へ。
私はこの宿に。

チャナッカレで一晩の宿を借りた「yellow rose pension」。ネットもフリーで使用できる。シングル一泊25YTL 朝食付き。


◆ トロイ遺跡に行こうか。

部屋のベッドに腰掛けてみたものの、することが無いという事に気づく。大半の商店が閉まってはいたが 市内散策は済ませている。他にすることと言えば… チャナッカレでのメインテーマ、トロイ遺跡 散策だろう。
昨夜のバスでの睡眠も時間は少なかったものの、体調は非常に調子がよい。これなら今日は少し無理をしても、夜早く寝ることでバランスが取れるだろう。

早朝、3人で向かった ドルムシュ乗り場へ今度は1人で向かっていく。
ゲストハウスから15分も歩けば到着するドルムシュ乗り場には 乗客の居ないドルムシュが待っていた。出発までの5分を 最後尾のシートで座って待っていると、発車直前にご年配の男性が1人乗り込んでくる。彼は運転手のすぐ背後に席を取り、その乗車時間を運転手との談笑に費 やしていた。


チャナッカレからトロイ遺跡まで、30分ほどドルムシュを走らせたところで到着する。料金は3.5YTL。

トロイ遺跡の入り口、チケット売り場らしきものを臨む十字路に私を降ろしたドルムシュは、運転手と年配男性の陽気な2人を乗せたまま走り去っていく。“ト ロイ遺跡行き”と銘打っているが、ここが終点ということでは無かったらしい。

草原に去りゆくドルムシュを見送った私は 数軒の土産物屋の前を通過してチケットカウンターに向かう。トロイ遺跡の入場料10YTLを支払いチケットを手にしたは良いのだが、入場ゲートが見あたら ない。ただ緑が囲む十字路にチケット売り場のこぢんまりとした建物と土産物屋が並ぶのみである。

あまりの違和感と手がかりの無さに、チケットカウンターにいた壮年男性に入口を訪ねると「道なりに400mほど歩
いてね」と言われるが、指し示す車道は まるで工事を中断して数年の歳月が経つような アスファルト舗装である。

車の通行を全く見ない道が続いている。車道を歩くことに気が引けた私はその歩道を進むのだが、歩道に敷き詰められた煉瓦ブロックの隙間から勢いよく飛び出 ている雑草が、寂れた観光地の様なノスタルジーで私をもてなしている。小さめな観光バスが1台停まる入場ゲートには10分程歩いたところで到着した。先の チケットカウンター氏からの情報、400mは過小評価だったようだ。

入場ゲートに設けられた読み取り機ににチケットを通して入場する。その真っ正面にはトロイ遺跡の俯瞰図が掲げられており、年代毎に色分けされている。

その俯瞰図が私に与えた心証、ファーストインプレッションというよりは結論と言った方が正解かも知れないが、それは 『ここは、あまりにも玄人向けだ…』 であった。一つの丘陵上に多層的に遺跡が眠る地。遺跡を発掘したシュリーマンが当時 どれほど苦悩したかを一様に見て取れる。
つまり、ふらっと訪問した観光客では “ さっぱり わかりません ” と正直に謝ってしまいそうな、そんな俯瞰図なのだ。もちろん私を含めてである。
事実、訪れた時間もちょうど良かったのだろうか 付近に人影が無い事を確認して後、「わっかんねぇーよ!!!」と1Km四方に聞こえそうな大声を張り上げた著者がいた。

入場ゲートのすぐ横に あまりにも有名な “ トロイの木馬 ” が置かれている。

一応、PC業界の末席に座る人間として、決して歴史学的見地からではなかったが トロイの木馬 というモノ、その実物を見たいと考えていた。実物とはいえ そもそも数千年の時を越えて当時の実物が残っているはずはないのだが、私はこの場所で見ることに意義を感じていたのだ。
今気づけば、おそらくそれがドイツ勤務氏と私との差異だったのだろう。

まずは 木馬を前に見据えた長椅子に腰掛け、半時間はゆっくりしていただろうか。やっと現れた他の観光客、一組のトルコ人カップルに記念の写真を取っていただくよ うお願いした。が、トルコ人が写真を撮った際におきまりとなる構図、“日の丸構図” をここでも見ることになる。しかも今回は“木馬が半分入っていない”というオマケ付き。

彼らに礼を伝えて先に見送ったあと、1人の遺跡観光が始まる。今回もまた遺跡を独り占め出来そうだ。

順路通りに歩を進めて行く私は、この後に起こる内なる悲劇を予想していたのだろう。
最初の高台から眺める風景に そよ風などの自然の心地よさと、横たわる遺跡群を理解出来るか否かの不安感を同時に感じていた。
実際 この後の遺跡の散策中、私はまるで夢遊病者か悪夢にうなされているかのように「イカン、わからん」、「ぜってぇ玄人むけだって。」「あーもう、無理無 理。」「この遺跡は間違いなく遺跡素人をからかってる!」を口ずさみ続けることになる。




◇最初の高台から望む 第6層。


◇少し上から望む 第2層

気が生い茂っている為、案内板が示す写真の様には見られない。

◇(小休止)その背後に広がる大草原。

羊飼いと羊の群れが、トロイ遺跡の理解に疲れた脳を癒す。

◇先の2層のすぐ隣に露出する 第3層。

草に生い茂られて、どのように見るべきかが全くわからない。この辺りから足取りが重くなる。

◇第1層

もはや石が転がっているだけで、素人な私には全く理解できない状況が発生している。

◇第2層

先ほど、高台から陽気に繁る樹木に遮られていた第2層。今度は目の前にてご対面。上部には雨を防ぐためのビニール屋根が張られている。

◇同じく 第2層

草に覆われて、まったく案内板の様な石組みが見えない。このあたりから「草を刈らないトルコ人」に対して静かに、そして沸々とした怒りが込み上げてきてい る。

◇第1層

やはり草に覆われているが、先の第2層よりは 幾分かマシである。

◇第1層〜第6層

第1層〜第6層 の積み重なりが一望出来るポイント。ここでは素直に穏やかな気持ちで状況を掴むことが出来きた。個別の層を見るより先に、大まかにでも全体像を一望してお いた方が理解も進むようだ。それならばここまでの個別の層で理解に苦しんでいた自分も素直に認めることに違和感はない。


決意を新たに個別層へと歩を進める。

◇第2層

城塞があったとされる第2層。ここまで見た中で一番 素人目にもわかりやすい遺跡である。

◇第6層

城壁の上部を見ることが出来るが、茫々と繁る草が城壁の全体像を隠している。

◇カンバン

このあたりから看板にも八つ当たりを始める私。例によって周りに人がいないことを確認してから「ふっざけんなよ、このプレート!」 とか叫ぶ。理解しようと努めてはいるが、実際問題としてどの石がいつの年代かが解らないのでヤケになっているのだ。看板が示す遺跡を難問と言い換えると 一問や2問ならまだ良いが、5問も示されるとパニックを起こす。早い話がスキル不足なのだ。
「もう無理、ごめんなさい。」と大地と看板に平謝りをし、素直に順路通りの写真を撮ることに専念することにする。

◇第8層 〜 第9層


ここいら辺から理解に努めることを放棄して、草原の散歩を始める。むしろ草を刈らないトルコ人に内なる闘志を燃やし始めている。

◇第1層、2層で共用された洞窟。


「洞窟があるよ」と看板が出ていたので、なんの考えもナシに歩いてみる。『変だなぁ、遠くないか?』と考えてつつ7〜8分程進んだところで、やはり私には 理解に無理のある洞窟の入り口が現れる。
往復20分弱の道程で蚊に20カ所以上刺されるが、何も起きなかったことにして精神の安定を図る。そして、やはり草を刈っていないことが蚊が発生した原因 の1つであろうと推測し、まだ見ぬトルコ人に静かに復讐の念を送る。

◇えっ?

復讐の念を送りつつ、洞窟の支線から本道に戻るとなにやら “ヴィ〜ンィ〜ン” と独特な音が聞こえてきた。
よもやまさか!!と思うが早いか、芝刈り要員と出くわす。
芝刈り要員氏も私が視界にはいると 爽やかに笑顔を送ってくれる。その笑顔は ここまでクレームを付けていた私の心を切なく締め付けていた。
彼らが見えなくなるまで少し歩いた後、心で「ごめんね」と呟いてみた。でも同時に「もう5月だが、草刈るのおそくねぇ?、もうちょっと早い時期に刈れ。 つーか、全域を今すぐ刈れ。」とも思っていた私はやはり腹黒い。

◇第4層、第6層


小劇場を残す第4層。ここまで随分と歩いてほとほと疲れ果てている頃に、さらなる石群が横たわる。

ここまで見歩いて 『 これは本当に朝イチで来て、たっぷりじっくり見ないと理解の入り口にも立てないなぁ。』と考えつつ目の前の看板を見ると第6層。「あれ?」 と思うが、すぐに4層と6層が隣り合って残されていることに気がつく。
第4層のシアターをカメラに納めた所で、意外にも出口がすぐ横手にあることに気がつく。


◇ 再度のチャレンジ。
入場時にカップルに撮っていただいた写真は見事な日の丸構図で 木馬の上半分が切れていた。遺跡を一巡して入り口に戻ってきた以上、再度のチャレンジを試みるのは必然である。
ということで、通りがかった郵便局員に撮っていただいた写真がこれ。

やはり上が切れている。。。。おそるべしトルコ人。

◇ 帰りましょう。

入場ゲートを越えたところで現れた 他称400mの道路。『うぇ〜、またこの道路歩くの?』とは思うも、ドルムシュに乗るためには徒歩で進むほか無い道である。遺跡散策でバテバテな足取り と、内容を理解できなかったもの悲しい脳を携えて歩く。
というか、そもそもナゼに歩道が草茫々なのだ?


◆ドルムシュ待ち。

歩道に生い茂る草を蹴りつつ8分程歩いた所で、これから遺跡に向かうらしい女性2人組とすれ違う。が、私とすれ違い、2m程進んだところで、背後から声が 掛かる。「旅行者?」と尋ねられる質問と、バッグ1つ持たない彼女らの服装を見るに可能性は1つしか無い。つまり、客引きである。
どちらに転んでもドルムシュが現れるまでにはまだ時間がある。チャイを飲めそうな屋台も無かったあの十字路、到着時にドルムシュを降りたあの十字路で待つ には、土産物屋で話しをする以外に手法もないだろう。問題は今の2人を含めて他の10数人もほとんど英語が出来ないことではあったが、トルコ語を喋られな いこちらも同じ事だ。手振りと顔芸、怪しい単語会話で何とかコミュニケーションを図ってみる。

そんな中、ふと見た土産物の中に “トロイの木馬のネックレス” を発見した。もともと 自分の中ではハイライトに分類されるイベントである。何か、、自分へのお土産があっても良いのではないか。と思い購入のため値段を聞くと「1リラ」とい う。。 『これは、、、、もしかして良心的な方々ではなかろうか??』 という考えに至ってからの コミュニケーションは非常に楽しいものとなった。
隣でレース編みをしていたおばさまを含めて4〜6人で馬鹿話に花が咲く。が、いつもと毛色が違う…

姉御1「あなた結婚してるの?」
わたし「いやまだしてないよ。」
姉御1「私はどう?」
姉御2「あなたは結婚してるでしょ。」
姉御全員「やだ〜、キャハハハ!」
わたし   (゚д゚)

関西のオバサン丸出しなテンポに こちらはタジタジである。なにせ男1人で文字通り 多勢に無勢なのだ。
撮った写真を後で見返してみると、あきらかに自分が縮こまっているのがよく判る。

「彼女はいるの?」という質問に答えあぐねていると、「このネックレスをもっていきなさい。」と、明らかに自分が買った木馬のものよりも上質なネックレス をプレゼントしてくれる。また、会話の流れの端々で細かいプレゼントが発生し、葉書や栞まで頂いてしまった。こちらからの断りの文句が通じないのである。

そんな底抜けに明るい会話の間にドルムシュを一本乗り逃してしまい、さらに1時間後のドルムシュでも姉御様達から 暖かい見送りを受けたこの場所は 今回の旅において忘れられない良い思い出の地となった。


◆ 街へと戻ろう。

トロイからのドルムシュがチャナッカレに到着したのは午後4時である。ドルムシュを降りてすぐにあったお菓子屋で日課のアイスを消化する。値段を聞くと1 リラと非常にお安い。

各種のアイスを見ていると、各々のテイストを試したくなり、通常は1色または2色程度の所を、ダメもとで「全部!」とお願いしてみた。快く引き受けてくれ た兄さんに感動し、翌日、チャナッカレを出発する直前にも訪れることになる。

早朝には完全に寝ていたチャルシーRdも すっかり夕方のかき入れ時を迎えて栄えている。

ゲストハウスに戻る途中で見かけた下着専門店で靴下を買う。今回の旅に於いて不便していた事に靴下の問題があったのだ。私はロングソックスを好んで使って るのだが、ここまでの旅では全く見あたらず、既に日本から持ってきた3組はとうの昔にサヨナラをしていた。それがこのチャルシーRdでまさか一組1.5リ ラ(約135円)という値段で買えるとは幸運と言うしかない。アンカラとは異なり、どうやらチャナッカレとの相性は良さそうだ。

チャルシーRdが海に突き当たるところにあるレストラン街の一角で夕食を摂り、明日のチケットを手配する。

本来はやってはいけないのだが習慣とは恐ろしいモノで、チケットを買うときに「ディスカウント?」と尋ねてしまう。
チャナッカレからイスタンブールへのバスチケットをスチューデントプライス(23YTL)で快く提供してくれた彼らに深々と礼を言ったあと、宿に向けて歩 を進める。


◆ 出発の朝

泊まった宿、yellow rose で出された朝食は期待していたトルコ風(ターキッシュ・ブレックファースト)では無かったが、オリーブとチーズの代わりに ゆで卵が出され イングリッシュ・ブレックファースト風にまとまっている。

時計を見ると10時ちょうど。11時発のバスに対してバス会社は30分前に到着してねと言っていた。やけに早い待ち合わせだな と思いながらも、最後はチャナッカレの港に建つ時計塔に別れを告げバス会社のオフィスに向かったのである。




◆オマケの写真館

港でフェリー待ちのはたらく車。今回のフォーカスはナンバープレートの国名と星。


“D”表記のトラックは ドイツ のナンバーで、上にEUの星が表示されている。自称ヨーロッパのトルコはEU加盟の準備としてナンバープレートのデザインを変更。星が入っていないのはま だ加盟していない為だが、いつ星が入るのかは神のみぞ知るである。

チャルシーRdで見かけた鞄屋さん、と、誰が使うのか皆目見当の付かない前衛的なデザインのカバン。



トルコ国内の各都市で見かけるスーパー BIM。やはりこの町でも見かける。


トロイ遺跡の 木馬内3階にある落書き。世界中におバカちゃんが一杯。


マウスの調子が随分と悪化し、ついに買い換えを余儀なくされた。新しいマウス君、これからよろしく。


ゲストハウスの目の前で見かけた年代物の車。赤いビートル… 良いかも知れない。


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