パムッカレ Pamukkale

◆ 風たちとの出会い。

アンカラを午後11時に出発したバスは途中2回のトイレ休憩を挟んで午前5時30分にデニズリのオトガルに到着した。付近は暗闇ではあるものの、街灯や建 物からの明かりがあふれていて寂しさを感じるほどではない。

オトガルのチケットカウンターに向かい パムッカレ行きのドルムシュについて尋ねてみると、6時30分から30分毎でドルムシュとミニバスが走るそうだ。
『なんだか結局はオトガルで待つことになるのだなぁ。』と思うも さほど気温も低くなく、またオトガル内であれば雑談相手の客引きには事欠かない。客引き曰く 「実は俺には日本人の彼女が5人居るんだ。」などといった毎度の馬鹿話に花を咲かせつつ、時間を消化する。

そんな中、マジメに日本談議を繰り広げた一人がパムッカレまで無料で送ってくれるという。

なんでも、パムッカレで旅行代理店のビジネスをしているとのこと、6時30分のドルムシュでパムッカレへ帰るのだが一緒に行こう と誘ってくれる。さすがにタダほど高いモノはないと身にしみているので通常料金1.5YTLを支払ったが、デニズリからパムッカレまでの15分を楽しく移 動させていただいた。

パムッカレ滞在は数時間。石灰棚さえ写真に納めれば すぐさまエフェスに向かう予定である。
彼からの情報によると、エフェス行きの便は一日に2本で、デニズリから午後12時30分。午後4時30分ならパムッカレからの直行便があるそうだ。
デニズリ発12時30分ならパムッカレを午前11時30分に出れば間に合う。現在時刻は朝の6時50分。石灰棚を越えて山頂へとゆっくり歩いても30分で 着くとのこと。 十分な時間がありそうだ。

彼のオフィスに荷物を預け、石灰棚に向けて歩き始めた1分後。トルコで初めて見る看板が目に入る。

『日本食ぅ!?』  正確にはこう書かれている −日本人が作る日本食。−
正直、びっくりした。と同時に 安堵感のようなものが込み上げてきた。それは決して日本語のという文字を見たことからではなく、「このトルコの地で日本人が働いている。」という事から だった。
おそらくは現地の方と結婚して ホテル業に携わっているのだろう。ここまでもそういった日本人を何人か見てきたが、まさかこの片田舎 パムッカレにも居ようとは思っても居なかった。

インド−バラナシのクミコさんを筆頭に、お会いはしていないがイスタンブール Tree of Lifeの尚美さん。そして ここパムッカレの典子さん。

長旅の最中に度々考えることがある。タイトルは「島国 日本」。
日本人旅行者は世界のどこにでも居る。ただし、定住者となるとその数は少ないように感じるのだ。

「中華街」という言葉がある。世界中の 大抵は何処の国にもある地域だ。すこし数が減って「インド人街」。「アラブ人街」なんて地域がある国もある。飛行機に乗ってしまえば、少し寝ているだけで 世界の何処にでも行ける時代。チケット代も下がり続けて 地球が本当に狭くなってきた。
歴史的背景はある程度無視するが、現状からの将来像を考察すると、それらと比べて日本はまだ鎖国をしている様に感じるのだ。「経済的」にも「文化的」にも 鎖国という言葉は当てはまらないだろう。おそらく私が考えていることは「人種」としての鎖国ではないだろうか。

日本を離れて 異国の地で生きる人々。大変な事やイベントは枚挙に暇がないだろう。エールを送る気など私にはさらさらない。現地民との衝突に「アッハッハ!しょうがない わねぇ。」なんて笑いながら過ごす彼女らの生き方が、「まぁ、○○人のすることですからねぇ」なんて雑談をする私を元気づけてくれるのだ。


話を戻そう。
日本食の看板が気になってドアをノックするが、人が出てくる気配が全くない。無理からぬ、時間は早朝7時の手前なのだ。パムッカレの石灰棚を見たあとで、 昼食に立ち寄ってみようと心に決めて、石灰棚に歩を進める。


◆ 石灰棚

旅行代理店の彼のオフィスからは徒歩3分で入場券売り場に着く。そこで5YTLのチケットを購入し、パムッカレの石灰棚を登っていくのである。


他の観光客の姿は全くなく、天然の石灰石棚を独り占めにして坂道に歩を進める私。その開放的な気分も手伝ってか「パムッカレー!!!!」と木霊を期待して 叫んでみたりする。(※注:もちろん返ってこない。)

水の張られた石灰棚は本当に数えるほど少なく。一種さびれた観光地のようなデジャブがあるものの、歩道やベンチ、案内板は驚くほどキレイに整備されている ことから、とても豊かな気持ちにさせてくれる。かなり恥ずかしい告白だが、「ゲッチュー!」って石灰棚に叫んだりしてみました。(※ 注:かなりハイテンション)

頂上に設置されているベンチに腰を下ろし。「人のゆく裏に道あり花の山」なんて某業界な歌を脳内で読んでいるときに、なにやら騒がしい一団が現れた。

時間をみると7時30分。団体旅行にしてもずいぶんとお早い到着で。などと思っていたら聞こえてくる雑談とガイドの言葉、どこかで聞いたことがある音韻だ と思ったら よりにもよって「日本語」である。

早朝のパムッカレ独り占めに終わりを告げたのは何の因果か「日本人シニアの団体ツアー」だった。
心で「そりゃねぇっぺや〜」などと神様にクレームを付けるも、「個人旅行でパムッカレ独占してたヤツ」がその状況に耐えられる精神力を持っているはずもな く、その場を退散し逆サイドの石灰棚へと移動しようとしたところで、今度は「韓国人シニアの団体ツアー」のご到着とカチあう。私はもはや心で 『No help, No hope, No medicine. 』を繰り返すしかなかった。

さて、逆サイドの石灰棚。
「ウオッホ。」こりゃまたグレイトな石灰棚で。と神様に感謝するも、例によって水は張られていない。


峠に設置されている歩道をゆっくりと歩きながら、先ほど団体に会った付近へと近づいていく。と、、、

なにやら石灰棚で彼らが見事に一列になっている状況を目撃してしまう。
 
あ…足湯だ………。
またもや 雰囲気ブチ壊しである。
一人の漏れもなく 〜日韓合同 足湯大会〜 を繰り広げていらっしゃる。あ〜もう付き合ってらんない。
この「全員参加」が自然に出来てしまう極東地域の特性は極めて優れたモノであろうことは疑いないが、
頭痛を抱えて HP用に写真を一枚撮るのがそのときの私に出来る最大限の努力であった。

つーか 源泉温度35度しかないのだが。足湯は堪能できたのかなぁ…。


◆ ヒエラポリス

パムッカレ山頂、石灰棚の横に併設される形で ヒエラポリスの遺跡群は4月の花と共に眠っている。



その一角にあるパムッカレのアポロ神殿。小道にはケシの群生が見事な花を咲かせていた。


シアター(劇場)の遺跡。アポロ神殿跡のすぐ隣、坂道を軽く登ったところから入れる。こちらも独り占め。正確には警備員がいらっしゃったので写真を撮って いただいた。30分程はゆっくりシアターの客席に座り、千年の昔に行われたであろう催しに心を馳せる。


同パムッカレ山頂にある温泉プール「アンティーク プール」。遺跡の沈むプールとして有名なスポット。

写真は一応泳げるらしい中庭のプール。実際はもう一段奥に大きなプールがあるそうで料金は18YTL。中庭までなら入場料は無料。


◆また戻ってきた石灰棚。

山頂で時間を費やした甲斐があってか、もはや某国ツアーは引き上げたようである。
んで、白人系な方々のある程度 てんでバラバラな挙動が私の心を和ませる。

そんな時に、勝手に極東代表として最上流で足湯を食らわせてやりました。(つまるところ俺も足湯をしてみたかった訳だ。)
写真に違和感があるのは、私のカメラを構えている奥さんを撮ろうと旦那さんが奥さんに向けてカメラを構えているから。

足湯の感想は… 『やっぱり ぬるかった』 です。


◆ 捨てる神あれば拾う神あり?

さて、昼食を考えてもバスまでまだまだ時間がある。いっそのこと全域を踏破してしまえ と、端っこまで歩いたところで、管理職員らしき方々が水路を開放するところに出くわした。
 

パムッカレの石灰棚は非常に広範囲に広がっており、このメンテナンスにかかる労力は大変なモノだと想像に難くない。「水を張っては乾かし」を繰り返して お椀を形成していくわけで、一気に全部の棚に水が張られた状態というのはちょっとあり得ないらしい。しかも 源泉の水量も減っているらしく、それに比例して、水の張られた棚がすくなくなったのだそうだ。

水路を開放するタイミングでカメラを構えられたのは非常に幸運なことだろう。
仕切り板の位置を変更し、開放口に設置されたゴム栓を外す。そして水流と方向の微調整の為に石を並べる。

『水が棚に溜まったところで もう一枚写真に納めよう。そしたらすぐに次の街に向かおう。』と考えていたが、棚に溜まりゆく水を見ていると、それは今日中には不可能なことがわかってき た。
30分程待っていただろうか。水が茶色のまま広がっていくのだ。何日も乾いたままだったのであろう。他の盆のような澄んだ水色になるためには、軽く10時 間は掛かりそうな雰囲気だ。

『あの棚が澄んだ水色に染まるまでパムッカレに宿泊するか? それともエフェスに向かうか?』自問しつつ石灰棚を後にした。例の昼食を取ってからバス停に向かうなら、今がタイムリミットなのだ。


◆ ちょっと一食のつもりで寄って。

いつの間にやら3泊目。気がつきゃギャモンにどっぷりハマり、コレじゃ更新が進むわけないね。は、わかっちゃいるけど止められない。あ、そーれ。

というJA○RACから怒られそうなネタは置いておくとして。
石灰棚からカバンを預けた代理店に戻る途中にある「日本食」の看板。実際には KALE HOTEL のレストランとなっている。造りは一般的で ホテルのレセプションとレストランが同フロアにある。
注文しようと店内に入った瞬間、どこかで見た顔が2人居た。超長期新婚旅行 中の木村夫妻である。3人でそろって口をあんぐり開けてしまったのも無理はない。彼らにしても 私にしても カッパドキアで会ったときの旅程としては トルコ北西部の 「サフランボル 経由 イスタンブール 行き」 だったのだ。なぜに南西部の パムッカレにいるのだ!?な疑問が渦巻くが、お互い、なんとなくね〜。で話が丸まってしまうあたりが長期旅行者のそれたる所以であろう。
彼らはここに もう1〜2泊するとの事。宿をトルコ人の旦那さんと一緒に経営する典子さんが作ってくれる日本食(一部 モドキ もあり。)に食の安心感を持ったことからも、私もとりあえず1泊することにした。

木村夫妻はパムッカレに立ち寄ったことで旅程に無理が生じているのかエアチケットを購入するために、検討会とインターネットに忙しそうではあったが、そん な忙しい時間を割いて 教えていただいたゲーム バックギャモンにすっかりはまってしまった私はHPの更新なぞそっちのけで KALE HOTELに宿泊した3日間 ヒマそうな旅行者をみつけてはギャモンをプレイしていたのである。(つまるところ延泊に延泊を かさねたのだな。)


◆ 翌日の石灰棚。

昨日は茶色い水で見られたモノではなかった石灰棚も24時間を経て美しいパステルブルーに染まっていた。

残念なのは水が張られた部位は山の斜面形状から直上の写線しか撮れなかったこと。そうはいっても昨日撮ったどの写真よりもパムッカレらしさを表現してくれ た。これで心置きなくパムッカレを発つことができるのだが、先に述べたギャモンと日本食によってさらに2連泊(都合3泊)を重ねることになる。
この日は 写線を取った上にあるベンチで、韓国人ツアー客が発する感嘆符に目が覚めるまで1時間ほどのうたた寝をするという非常に贅沢な時間を過ごした。


◆ パムッカレ村

人口は数百人規模なのだろうか?石灰棚から見下ろす町は非常に小さな集落に見え、民家を取り囲む農地はあまりに広大である。


大型のスーパーなどは見あたらず 小売店が点在する。レストランやチャイ屋が至る所にあり、地元年配者が憩う場となっている。

パムッカレに訪れる旅行者の大半は日帰りか一泊で通り過ぎるらしい。ごく稀に1ヶ月ほど滞在する旅行者もいるそうだが、3泊の私は典子氏からすると長い方 だという。
「ギャモンと日本食」とは先に述べたが、もしかすると私が長居できたのは「自分の故郷に近いから」だったのかも知れない。もちろん国が違うことから文化や コミュニケーション手段は全く異なる。

『旅の終わりはどこだろう?』
石灰棚で贅沢な昼寝をしているときに考えていた。
沢木光太郎著 「深夜特急」 では ヨーロッパの西端にある岬がその地であった。私はロンドンへと直接目指すつもりであったが、それで心の底から満足するのかは疑問を抱いていたのだ。たとえ ば、その岬へ向かえば 旅の終わり を実感できることは間違いない。遙か遠くシンガポールから始まった陸路の旅。ユーラシア大陸の最南端からスタートしているのだ。ユーラシア大陸の最西端で 帰結することはあまりに順当だとも考えていた。
TV版「深夜特急」のメイキングフィルムは「旅の終わりは見つかりましたか?」という問いかけで最後が結ばれる。それは長期旅行をする人々に向けて尋ねて いるように私には感じられた。
『私の旅の終わりはどこだろう?』 時折 考えていた。
ここパムッカレに来て、村を一望する椅子に腰掛け 『もしかすると自分の故郷ではないだろうか?』という可能性を私は見ていた。


KALE HOTEL

お世話になったKALE HOTEL。4年ほど前から 日本で最も売れている某旅行ガイド本に紹介されているとか。


写真は親子丼 12YTL と 偽やきうどん(メニュー表記のまま) 8YTL、宿泊料に込みの朝食 ターキッシュ ブレックファースト。
親子丼には三つ葉の代わりに ハーブが用いられている。野性味がアクセントとして非常に効いており、普通の日本の親子丼よりウマイかも。偽やきうどん の名の由来は、麺がパスタであること。とはいえ卵麺を用いているのでコレは日本でもアリだなと。ただし日本で手に入るパスタ麺はやたらと高いのが難点か。
朝食はなにやら日を追う毎に豪華になっていったような気がする。最終日にはエキメッキがネコ積みで来たが、これは何かの冗談だったのだろうか。真相は謎の ままである。

KALE HOTELのHPアドレス。http://www.geocities.jp/kalehotel
HPへの訪問客がすくないとの事。もし良かったら訪問してあげてくださいな。


◆ エフェスにむかいましょうか。

パムッカレからエフェス(町としてはセルチュク)に向かう12時30分のバスは 一旦デニズリまで出る必要がある。
初日にパムッカレまで同伴してくれた旅行代理店氏のオフィスにてチケットを手配する。事前のリサーチの通り、デニズリ〜セルチュク間は15YTL。これに パムッカレ〜デニズリまでのドルムシュ1.5YTLがかかる。

ちょうどデニズリ行きのミニバスが目の前に到着した。乗り込もうとしたところで、旅行代理店氏が無断でミニバス代を払ってしまう。「おいおい、そりゃイカ ンだろう。」と言う私の言葉を「君は初日にオトガル代を払っただろう、その代わりだよ。」と粋な言葉を投げてくれる。
最後、バスに乗り込む私へ 「サラバジャ」という日本語とともに 合掌とお辞儀を併せ見送ってくれたのである。

ミニバスは11時30分にパムッカレを離れ、長閑な田園風景を贅沢な時間と共に私にもたらしてくれる。

ミニバスの名が表す通り、途中で何度も停車しては乗客が乗り降りする。「贅沢な時間」そう感じたのは途中でトルコ人老婆が2〜3歳の孫と共に乗ってきた時 である。既に満席だったが一人のトルコ人青年が立ち上がり老婆に席を譲ったのだ。斜め後ろに居たわたしと彼女の目が合ったとき、言葉は発しなかったが お互いに笑顔で挨拶をしたとき、彼女の深い皺から得も言われぬ贅沢な時間を感じたのである。
彼女が10数分でバスを降りた、過ぎゆく車窓から年端もいかぬ子供を抱いて歩く老女を見ている私は まだ贅沢な時間を感じていた。
ミニバスはドルムシュより5分遅く 20分後の11時50分にデニズリに到着した。

セルチュク行きのバスは12時30分発。まだ少し時間がある。チケットカウンターにて座席の確認と 売店で500mlの水とビスケットを買い準備を整えた所で 乗り込むバスがプラットホームに到着した。


12時30分。予定時間ちょうどに発車したバスで私は音楽を聴いていた。
向かう先はセルチュク。本家ギリシャを越えて且つ、トルコ最大規模の古代遺跡だというエフェスがある町。

乗車時間にして2時間と40分。午後3時10分に到着すると同時に聞き終わった最後の曲は「ユニバース」。
気持ちの用意はこれ以上ない程にカンペキであ る。

バッグを背負い 私はセルチュクのオトガルに降り立った。



◆オマケの写真館


KARE HOTEL の玄関にある看板。「 日本人が作る 日本食 はここ 」  と書かれた部位の右上。
「 でも 典子が不在時のご注文は危険です 」って…


パムッカレの温水が流れる用水路上で昼寝をする犬の図。
暖かそうだなぁ。


パムッカレで最も知られた部位の石灰棚。
But 水が全く張られておりません。


村で見かけたトラクター乗り。
ノンネクタイでワイシャツ・スーツ着用。何気にかなり格好いい。
目があったので 「写真を撮らせてくれ」とジェスチャーをすると
わざわざバックで2mほど戻ってきた。

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